青く澄み切った海と空、そして深い緑の原生林のテニアン島は不思議アイランド。時間が止まったままの空間にハイクをします。
「血染めの南十字星」 から


「血染めの南十字星」 

     南海の孤島に散華した戦友に捧ぐ  磯部利男氏 著

第2章 戦況、風雲急を告げる 『カチ工場の洞窟』 

第5章 新生日本と世界平和を願って 『遺骨収集』 

     

カロリナス台地、第56警備隊最後の洞窟付近、展望台より紺碧の海を望む。

 

1944年8月2日、第56警備隊に配属されていた磯部さんがテニアン玉砕の直前に生死の危険を乗り越えながら過ごした「カチ工場」の洞窟での様子を氏の著書より引用させていただきました。私ごときのブログに引用の許可をいただけた事に感謝いたします。

 




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「血染めの南十字星」 南海の孤島に散華した戦友に捧ぐ 磯部利男氏 著

第2章 戦況、風雲急を告げる

『カチ工場の洞窟』

     

しばらく歩いていると絶壁になっている岩場に出た。そこで小銃を背負い、手榴弾をポケットに入れて絶壁を伝って行った。少しの間動いた頃、下の方から月の光を受けてキラッと光る物を見た。敵兵かといぶかりながら「誰かっ」と声をかけてみた。「必勝」という言葉が返ってきた。「信念」と返して下の方に降りて行った。下の岩場に降り立つと、そこに待っていたのは海軍航空隊の下仕官以下六名の斥候兵だった。時々、敵の照明弾が上がり、辺りが昼のように明るくなるので、彼等は私の服が血で染まっているのを見て「負傷しているではないか、大丈夫か」と心配してくれた。「肩の傷は艦砲でやられ、腕は戦車機銃でやられたが大丈夫だ」下士官は私に対し「隊長の所に案内するから戦況を知らせてくれないか」と言うので、航空隊は戦闘にはあまり参加していないので、戦況が分からないかもしれないと思い、案内してもらうことにした。

     

     
六名の隊員と少し歩いて行くとカチ工場に着いた。見ると工場のつるべ井戸がある。思わず「私は一日中水を一滴も飲んでいない。水を飲ませてくれ」と頼むと「出血がひどいようだから、いま水を飲んだら死ぬぞ。飲んでもよいようになったら必ず飲ませてやる」こう言って問答しながら、狭い入り口を這うようにして洞窟の中に入っていった。

      
洞窟の中は薄暗く、奥の方まではよく見えないが、そのうちに目が慣れてだんだん辺りの様子がわかってきた。洞窟の中は三段、四段と降りていき奥に広がっている。体が強く水を要求しているせいか、水を貯めている大きな桶がすぐ目に付いた。

      

     
奥の方は広がっていて、航空隊の兵が三十名くらいいて、それぞれ話をしている。やがて隊長に呼ばれていくと、先ず自分の官、姓名を名乗った。「鷹部隊、海軍大尉、松本だ」私も官、姓名を言って向かい合った。「我々には陸上戦の兵器がなく、六名に一丁の小銃しかないような状態だ。十日以上も洞窟にいるので外のことが分からないから、戦況を教えてくれないか」と尋ねてきた。「敵はカロリナス入り口まで来ています。この洞窟より五百メートル先まで来ているし、テニアン島守備隊は明日には全滅するかも知れない、この穴も危ないですよ」と言って、見てきた様子を話した。
「そうか」松本大尉は一言発すると、下士官を集め何やら打ち合わせをしていたが、全員に向かって「守備隊最後の日がやってきた。総攻撃があるので我々も航空隊司令部に合流する。最後の突撃に間に合うように台上に登れ」と言って、松本大尉が戦闘に立ち全員がその場に鉄兜を捨て。「我々はもう鉄兜をかぶってまで身を守ろうとは思わない」と言って、悲壮な覚悟で出て行ったのである。
私は傷の血が止まらないので、千人針を腹から外して腕の傷口を固く止めてみた。テニアン島も八月一日か二日には玉砕するだろう。私も最後の突撃には参加しなければならないと思いながら、その夜は動かないで傷の痛みに耐えていた。

     

奥の方には民間の人が二世帯程避難しているようだ。私は夜が明けないうちに洞窟を出ていこうと思い準備をしていると、「兵隊さん、出て行かれますか。私達はどうしたらよいですか」私はどうしなさいという返答ができない。仕方なく「私は軍人ですから、ここにいることができない。最後の突撃に参加するためにここを出ていきます」こう言い残していくより他になにもしてあげられない。私に問いかけてきた老人は、途方にくれているようであった。

    
私は朝四時頃洞窟を出て、カロリナス中段のジャングルの中をカロリナス岬に向かって後退して行った。私が行く先々では多くの負傷者が一人で、また何人かで寄り合って手榴弾で自爆したり、銃で我が命を絶ったり、悲惨な光景が続いた。
八月一日午後には、敵軍が既にカロリナス台上も占領して、中断にも敵戦車八台が進攻していた。


 

第五章 『遺骨収集』より

戦後、我が国の再建も年を追って進む中で、昭和五十年五月六日より十日間の予定でサイパン島・テニアン島の遺骨収集に参加するよう勧誘を受けた。採友会(関西、四国、九州地区サイパン島、テニアン島生還者の会)と、岐阜マリアナ海合同の計画である。

私は早速、勤務していた川瀬町農協に10日間の休暇をとり、参加の準備にとりかかった。

久しぶりに戦友と戦った地に立てる。洞窟にも行って収集したい。あの洞窟には何体かの遺体が眠っているはずだ。このように記憶をたどっていくと、在りし日の元気な戦友の姿がはっきりと写ってくる。

連絡されていた日時に羽田空港に集合した。集まったメンバーは、音琴元海軍中尉(長崎市)、金谷安夫負債と長男(長崎市)、堀内秀雄氏(愛媛県)、宮脇初子氏(宮崎市在住テニアン島生まれ)、磯部利男(鳥取県)の七人である。

マリアナ会の参加者と合同の団結式を終え、機上の人となりグァム経由でサイパン島に到着した。帰国後、常時、私の胸中からはなれなかったサイパンの地に降り立って、「やあ、とうとうやって来たぞ。みんな久しぶりに会おうな」と思わず心の中で呼びかけてしまった。

サイパンの空は青くすみわたり、紺碧の海原はキラキラと照りつける太陽の光を受けていた。私達収集団は、サイパン班とテニアン班に別れて行動することになり、私を含めて二十人のテニアン班は翌日テニアン島に渡った。2ヵ所に分かれて宿泊することになり、私は海岸近くに宿泊することになった。島民はとても親切で、私達を心から歓迎してくれている。自分の家で作った西瓜を大きな籠に入れて出してくれた。

明朝八時には宿舎を出発して、自分の希望する場所に行くことになり。私はもとよりカロリナス南海岸の敗残生活を長くした場所を選んだ。そして、私はカチ工場跡の洞窟に先ず入ってみることにした。

あそこには私が葬った遺体があり、この戦友を私の手で収集しなければいつまでも重荷を背負っているようだ。幸いにも私の後に長い間隠れていた佐藤昭三氏(山形県)も同行されているので、いっしょに行くことになった。

遺族三人と島民一人計六人の編成で、収集グループを組んで出発した。

島民で同行してもらったのはシンさんといい、彼はテニアンのことはよく分からないがロタ島で生まれて、小学校六年間は日本語の教科書で勉強したので日本語はよく分かった。

私達はカロリナスの入口までシンさんのトラックで行き、そこからはトラックから降りて歩いた。一歩一歩と進むと、気のせいか戦友が迎えに出てくれているような錯覚にさえなった。

      

三十年間経過してジャングルの様相も一変していて、歳月の流れを深く感じる。目指すカチ工場跡がどうしても見つからない。数時間かかって探し、近くまでは来ていると思うがどうしてもわからない。とうとう六人は探し疲れて休憩しようと、その場にドスンと座ってしまった。ところがガサガサガサー、私達の目の前に大トカゲが飛び出てきたではないか。体調一・五メートルくらいの大物である。あまりにも大物が現れたので、瞬間的にみんながカメラのシャッターをきった。しばらく止まって周囲を見ていたが、いきなり洞窟の方に素早く逃げていったので、後を追ってみると、ごく近い位置にカチ工場跡に出たではないか。あれほど見つからないで困っていた位置が、いとも簡単にトカゲが連れてきてくれたではないか。みんなはまさしく神のお導きと驚いたり、姿を消した大トカゲに感謝をした。

     

洞窟の中に入っていくと、戦後になっても誰も足を踏み入れていない事がよく分かる。暗いのでローソクをあちこちに立てて動きやすいようにして、遺族の皆さんにも入ってもらった。

     

     

辺りを見回すと、私達が入っていた時と変わってはいないが、足元付近に散らかっている物は錆びてボロボロになっている。それらの一つ一つには、三十年前の思い出が鮮明に蘇ってきて遠く外で響く米軍の砲声や、機銃の音を聞きながら。傷ついた身体を横たえていた時が静かに浮かんできた。とめどもなく涙が溢れてくる。遺族の方も顔を見るとみんな涙で溢れている。

遺体には少々土がかけてあるだけで、白い骨は全部表面に出ている。

     

     

     

鉄兜写真提供、荘之助さん。

私は佐藤さんと二遺体を別々に網袋に入れて洞窟の入り口まで運び、付近にあった機銃や帯剣数本と鉄兜数個、食器等を持ち出して穴の口に集め、用意してきた線香を立てて、全員が供養した。このような遺骨収集を島内のあちこちを回り、記憶をたどりながら汗を涙の一週間だった。

毎日夕方には、それぞれのグループが収集して持ち帰った遺骨が山と積まれてきた。

 

 

   

    

今から18年前(推定)タガの日本人墓地にて慰霊祭後、向かって左からエリカ、私、磯部氏、リナ。

今でもお元気に亡き戦友の慰霊に毎年テニアン島を訪れる磯部さんです。何回も慰霊と想い出を辿る磯部さんとご一緒させていただき貴重な戦争の体験談を聞かせていただく機会をいただいたことに感謝です。テニアン島の景色を見ながら体験談をお話してくださる磯部さんは戦争当時の生死を賭けて戦った凄みはなく落ち着いた、優しい口調で一つ一つの言葉を噛み締めるようにお話してくださるのが印象的です。

その中でも特に磯辺さんのカチ工場の体験談が私の心の中にいつも残っていましたが、テニアンハイクで偶然にもカチ工場の洞窟に入る機会に巡り合え現実に遺品を目の当たりにし、残された小さな遺骨の欠片に手を触れて感慨深いものがあります。テニアン島には今も戦争の傷跡が残されていますが、時は流れ新たな息づきと共に、戦争で亡くなられた方達の魂に見守られ、後押しをされながら平和なこの時がいつまでも続きますように。

                            By michi

 

 

 

 

 



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2008⁄08⁄09 12:20 カテゴリー:ハイク etc. comment(4) trackback(0)
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コメント


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(2008/08/12 01:10) | [ 編集]


Mさん、コメントをありがとうございます。戦後こんなに長い時間が経っているのに磯部さんの過ごした空間が残されてるのには感慨深いものがあります。
また、テニアンでお会いできる日を楽しみにしています。
(2008/08/12 06:48) URL | michi[ 編集]

見据えなければならない現実
胸がつまり、目が潤むことしばしで、最後まで読むのにとても時間がかかりました。でも、心して、しっかり読まねばならない当時の現実と、今現在のお写真達でした。特に、ご自分で埋葬したご遺体と対面されたときのお気持ちは、いかばかりであったことでしょうか。様々な戦争の記録が浮き彫りにされるこの時期、いろいろな角度から見る「戦争」にはいろいろな思いが交錯いたしますが、この時代を懸命に生きた方々、そして乗越えた方々に心から敬意を表します。貴重なお話をありがとうごさいました。
(2008/08/16 16:41) URL | ありどん[ 編集]


大変貴重な体験談のごく一部ですが、引用させていただけた事に心からお礼を申し上げたい気持ちです。

ありどんさんからいただいた感想文はそのまま磯辺氏にお伝えしたく、この様な歴史を見据えた上で、テニアンをこよなく愛してくださる事に感謝です。
(2008/08/16 23:03) URL | michi[ 編集]



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